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19世紀の弓-ヴィエニーズボウ:ウィーンにて Part2



"この時期まで明らかなベートーベンの創造力の衰えはなかった。しかし、悪化し続ける難聴によって、いかなる音楽も聴こえないことは必然的に彼の創造力にも影響したことだろう。彼が今まで独創的であらんとし、新たな道を切り開こうとも失敗をせずに済んだ耳のガイドがないのである。或いはそれによって、彼の作品がより奇抜に、支離滅裂で、理解し難いものになっていったのだろうか?確かにこれら最晩年の作品を理解できると主張する人たちがいて、自分勝手に最晩年の作品を昔の傑作より遥かに高く評価をしている。しかし私は彼らとは違い、憚ることなく言うが私はベートーベン最晩年の作品をまったく楽しむことが出来ない。そう!私は称賛されている交響曲9番をもその中に含めるのだが、はじめの3つの楽章に天才の片鱗を見せる箇所があっても、私からすると他の8つの交響曲にはるかに劣っていて、第4楽章は奇怪で趣味が悪く、シラー(Schiller)の歓喜の詩を取るに足らないものとしてしまい、ベートーベンのような天才がどうしてこのようなものを書いたのか未だに理解が出来ない。ウィーンで私はかつてベートーベンには審美的な感覚や美しいと感じる心が欠けていると評したことがあるが、この作品はその証拠のように思えてならない。"

P.188~P189 Autobiography Trans, from the German Copyright ED by Louis Spohr


シュポアはベートーベンを尊敬し事あるごとにベートーベンの作品を各地で演奏しているが、最晩年の作品に対しては実に手厳しい。ベートーベンが若かりし頃においても賛否が真二つに割れたというが、最晩年の作品はシュポアのように感じた人が大半であっただろう。ベートーベンの晩年の幾つかの曲は自身の手記からわかるようにモダンボウを意識しており、モダンボウでの演奏が合っている。アヴァンギャルド(前衛)はノスタルジア(懐古)と表裏一体で、ベートーベンが活躍したウィーンは古典のノスタルジアが永らく色濃く残った都市である。「昔はよかったなぁ」という人が大勢いる場所でないと前衛は成立しないのである。ヴィエニーズボウはそのような都市で19世紀に好んで使われていた弓である。


ヴィエニーズボウ

18世紀末~19世紀初めにドイツ語圏で作られた弓を見ている。トランジショナルの弓でヴィエニーズボウ(ウィーンの弓)と呼ばれた一種である。何をもってヴィエニーズボウと呼ぶのか線引きは曖昧であってはっきりと区別することが難しい。幾つか特徴を挙げるとするならば、ヘッドがバトルアックス(戦斧)の形をしていること、フロッグの合わせが溝とレール状の突起によるものであること、手元のハンドル部分が八角ではなく丸いこと、パールスライドやフルールの無いオープンフロッグであること、イギリスやフランスで作られたものに比べフロッグの位置が比較的にヘッド寄りであること、そして18世紀末~19世紀前半に作られたものであることなどだ。様々な素材で作られたが、この弓のスティックはブラジルウッドでできていて、フロッグは黒檀を使用している。先端のノーズの部分は欠損したものを整えたのであろうか、一般的なものに比べるとやや短く感じられる。刃物の跡なども残っており作りは粗く、かなりのスピード感をもってパッと作った弓だと思う。お世辞にも美しい弓とは言えないが、反りを整えたところ困ったことに弾きやすい。弓先でのスタッカートはモダンボウのようにはできないが、音色や響きが良い。これはそもそもそういうものなのである。色々な時代の弓を見てきたが、どの時代の弓も用途が違うだけであって、それぞれ弾きやすい。18世紀後半にドイツで作られた弓の多くは、各都市に存在した宮廷楽師を兼務する弦楽器職人によって作られている。弾きにくいわけがない。当時の各宮廷で演奏されていた音楽にあった弓を作り、それが古典の音であった筈だ。


楽器や弓は各宮廷にて作られたほか、マルクノイキルヒェン(Markneukirchen)やミッテンヴァルト(Mittenwald)は拠点となって多くの楽器や弓を他の都市や国へ供給している。研究者によればバトルアックス状の弓は18世紀中期にはドイツ語圏の国々ですでに作られていたことが確認されている。バイオリンだけではなく、バス弓など低音の弓にもこの形状の弓があって18世紀後半に向けて徐々にヘッドが高くなっていく。広く知られるようになるのはマンハイムのバイオリニストであるヨハン・ヴィルヘルム・クラマー(Johann Wilhelm Cramer1746~1799)が世に出てからである。それまでイタリアンスタイルの弓を作っていたフランスのレオナール・トゥルトはこれを境にバトルアックス状の弓を作り始める。弟のフランソワ・トゥルトのモダンボウはこのバトルアックスタイプの弓を経なければ成立しなかっただろう。今となってはクラマーの名前は弓の形や息子のピアニストの名前として残るのみであるが、シュポア夫妻が1807年にフランクフルトでコンサートをした際に現地の新聞はクラマー夫妻の再来のようだと褒め称えた。クラマーペアはこの時より遡ること30年以上前にシュポア達と同じバイオリンとハープのデュオでツアーを行い一世風靡した。シュポアの回顧録によれば25年から30年前とあるが、記録に残るクラマーによるパリでのコンサートは1769年のことである。移ろう時の中で30年以上経っても人々の記憶に新しいということは、当時としてはかなり大きな出来事であったに違いない。フランスではトゥルトの他、ムシャン(Meauchand)やデュシェン(Duchaine)、そして後年クラマーが移り住んだイギリスではドッド(Dodd)がバトルアックスタイプの弓を作っている。ドイツ語圏で作られた弓とこれらの弓との大きな違いは、フロッグの合わせ方が溝とレール状の突起によるものであることだ。この突起やレールの幅によって東のマルクノイキルヒェンに代表されるザクセンで作られたものかミッテンヴァルトや南の地方で作られたものかがわかる。ザクセンで作られたものに比べ、南部で作られたものはレールの幅が広い。



続く


参考文献

・Autobiography Trans, from the German Copyright ED by Louis Spohr

・L'Archet Revolutionnaire 1700-1800 Tome2

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