top of page

トランジショナルボウ Part2-ドッドとトゥルトの風景

“ドッドについて”と書き始めたものの、ドッドやトゥルト、そしてトランジショナルボウやモダンボウを生み出した時代が沸騰していく様子や音楽シーンを知ることのほうが、弓の形だけを追っていくよりはるかに大切な気がして途中でテーマを変えた。音楽家は当時演奏ツアーで各都市を巡っており、皆が繋がっていてドッドやトゥルトその他の職人が得ていた情報は同じであった筈で、彼らが遺した弓は同じ現象として見るべきだと思い、ドッドやトゥルトを生み出したであろう音楽シーンにまで広げることにした。


ドッドは多くのヘッドのパターンを試した。これらの弓はそれぞれ異なる演奏家がもととなる弓を所有しており、彼らから依頼されてドッドに生産を委託した工房とのコンタクトによって作られた。ベッツ(Betts)、フォースター(Forster)、バンクス(Banks)、ノリス&バーンズ(Norris & Barnes)など様々な工房へ弓を作っており、象牙のフロッグにはこれらの工房の刻印が押されているものがある。クラマータイプの弓はヴィルヘルム・クラマーがイギリスに拠点を移した際に持ち込んだものか、フランスでトゥルト兄弟が作っていた弓をイギリスに持ってきた音楽家がいたのか定かではない。一つ言えることはイギリスには当時音楽協会(フィルハーモニック協会)があり、議会の開会に会わせて音楽祭を毎シーズン開いており、大陸で名を馳せた音楽家は渡航費用や宿泊費など全ての費用を協会が負担しイギリスに招かれた。一つのコンサートに対する対価が当時最も高かったのは産業革命を起こしたイギリスで、音楽家にとって最も魅力のある場所であったに違いない。多くの場合数か月に渡り滞在するか、中にはそのまま移住する音楽家も多かった。よって大陸とイギリスの間で情報の時差や格差はほぼ無かったと言ってよく、フランスとイギリスで同じような弓が同時期に作られた背景にはそのようなことが関係している。

出典:L'Archet Revolutionnaire 1700-1800 Tome1/P145
出典:L'Archet Revolutionnaire 1700-1800 Tome1/P49

ドッドのモダンボウは、初期にはトゥルトの弓を所有していたヴィオッティーなどのものを参考にしたのだろう。以前述べたように、ヴィオッティーはトゥルトより2.5㎝短いドッドのものとみられる弓を使用していたと後年バイヨが記しているので、晩年のヴィオッティーはドッドか彼の弓を扱っていた工房とやり取りをしていたと言われている。モダンボウを作るにあたりドッドは経済的な理由かは定かではないが、銀のスプーンや食器を使い、レストランやバーででたオイスターの貝殻をもらい受け弓に使ったという話がある。一方のトゥルトなどこの時代のフランスのメーカーは、身の回りにあったものを使ったことに変わりはないが、ナポレオン銀貨や金貨を潰して弓にあてている。昔の古い弓を修理で解体するとその痕跡がみられることがあるので面白い。


イギリスやフランスで当時どのようなことが起こっており、誰と誰が繋がりを持っていたのかがわかると、ドーバー海峡を挟んだ両国における当時の音楽事情が俄然色彩を帯びてくる。


シュポアは演奏の為イギリスへ渡航したことや、パリで会った音楽家のこと、彼が目にしたイギリスやフランスの音楽シーンにおける所感を日記に記している。シュポア夫妻がイギリスへ演奏旅行をしたのは1820年のことでありドッドが既にモダンボウを作っていた時期にあたるが、荒天の中ドーバー海峡を渡った時のことやフランス語やドイツ語が通じず苦労したことなどが記してあり、雰囲気を伺い知ることが出来る。トランジショナル期ということで見るとシュポアのパートナーであるドレット・シュポアはハープの名手であり、この演奏旅行中にサイズが大きく機構を増やし改良したハープを試している。もともと健康面に不安を抱えていた彼女には身体的な負担が大きく、新たなハープの優れた演奏性能を知ってしまった彼女はこれを期にハープの演奏を泣く泣く断念している。シュポア自身はイギリスで新たなテールピースをつけて異なるアフターレングスを試している。1820年の6月18日に行われたシュポアのコンサートで演奏された曲目を見ると、ノネットにはドラゴネッティが参加しているではないか。それぞれの楽器や音楽で新しいことをやっていた人達が出会い、交流し「取り敢えずやってみよう!」というのがトランジショナルの空気であったのではないか。


出典:Autobiography by Louis Spohr/P94


bottom of page