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工房探訪 Part2-ヴィニェロン

ヴィニェロンは手が速かったことで知られているが、演奏性に優れた弓を多く作った人だと思う。イザイやルシアン・カペ、若かりし頃のジャック・ティボーが活躍した時代の人である。1日1本、正確には1週間で6本の弓を作ったという。この6本という数はどの国においてもスタンダードなロットであったようで、6本、6個単位で物を作っている。ミルクールの多くのメーカーがやっていたように、黒檀と銀板を下請けにまわしてフロッグとボタンを半加工からやっていたとしても、驚くほど仕事が速かったに違いない。ヒル商会の職人達が1週間で6個のフロッグを作り、もう1週間をかけて6本のスティックを削ったというから、倍のスピード感である。ドイツでは細かい分業であったものの、1人1日12本という数を削っていた。寡黙に13時間ぶっ続けでワークベンチに向かって仕事をしたというかつての労働としての弓作りの姿がそこにはあって、優雅の欠片もない。手が速いことが稼ぎに直結していた時代のことである。後年、ベルナール・ウーシャの教え子たちは仕事が遅いとかつてのミルクールで弓作りを学んだ人々は嘆いたというが、このスピード感からすればさもありなんである。フランスの弓作りの復権を掲げたエティエンヌ・ヴァトロとベルナール・ウーシャは、精度を優先させた為に生徒達に完璧であることを求めた。ウーシャスクールでは技術の継承は行われたが、スピード感や日々のルーティンといったものにおいて、かつての伝統とははっきりと異なるものであったことを頭の片隅に置いておきたいと思う。



ヴィニェロンの工房である。ヴィニェロンの着ている服以外、トゥルトの時代から何ら変わったところはない。ワークベンチの上には炭を入れたダッチオーブンとニカワの入ったグルーポットがある。撮影用に背景を暗くしたのかもしれないが、いずれにせよ炭を使っていたのでおそらく室内、室外共に建物は黒ずんでいただろう。かつてベルリンの壁が出来るのを目の当たりにしたという87歳になる都内でバイオリンを作っている方が、以前の欧州の建物についてもっと暗い印象であったといつぞや話していた。トゥルトの時代にはロウソクを使い、以降石炭など様々なものを使ってきたわけで、建物が煤だらけにならぬ筈がない。


ワークベンチの縁にはフロッグを加工する為のスロットが幾つか刻んである。その横にあるひしゃげたように凹んでいる箇所は、ヤスリをワークベンチに当ててパーツを削った際に出来たものかもしれない。真っ直ぐではなく斜めに凹んでいるのは彼の癖であろうか。写真の中の彼は足を組んで片膝を上げているが、膝はクッションを伴った立派な作業台でもある。手とワークベンチ、そして膝を使って三角形を作り、三点でがっちり固定して削るのだ。ヘッドのチークを膝の上に載せて削ったり、スティックのモーティスを膝の上であけたり工程の様々な場面で膝を使う。バザン工房での集合写真に多くの職人や見習いが写っているが、狭いスペースでも仕事が出来るように工夫していった結果だろう。ワークベンチにはヘッドの高さとスロートの形を決める為のテンプレートが見えるが、何百回、何千回と同じ作業を繰り返すうちにゲージなどは大して使わずとも弓が作れた筈だ。


以前、ある気鋭の弓職人が「これから50年後どうなっているか想像できるか?皆こんなに良い弓を作っているんだぜ」と話していたが、当時の自分は“もっと数を作らないと遺っていないよ”と話を聞きながら生意気にも心の中で思っていた。それから10年経って色々な弓を目にしてきたが、当時去来した思いは今でも変わらない。弓は消耗し様々な理由で廃棄されるのであって時の流れの中で淘汰され、圧倒的な数を作った人のみが後世メーカーとして認知される。ヴィニェロンやサルトリーの写真を見る度にため息に似たものがでるのは自分だけではない筈だ。

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