ここ数日、毎晩モスクワ在住のおそらくアマチュアの画家さんに弓の毛替えを教えている。ご自身のアトリエに毛のついていない弓が転がっていた為、毛を張ってみようと思ったらしい。どこまでまともな毛替えができるのかわからないが、取り敢えずおもしろいので続けている。器用なものでクサビを上手にカットして弓毛をフロッグに固定するところまではできた。レッスンの報酬はさしずめ彼の描くマティス風の静物画かいつぞや彼がインスタグラムにアップしていたボルシチのレシピといったところではあるまいか。今は誰でも色んな情報を得ることができて、必要であればすぐ誰かに聞くこともできる。楽器や弓作り、演奏においても色々な人が情報を公開、発信しており「誰もが教え、誰もが学ぶ」というVSA(Violin Society of America)の標語にあるようなことがなんとなく実現しつつあるのではないかと思う。実際には勿論出来ないことも沢山あるが、出来るところは自分でもやってみたいと思う。
自分で弓の毛を交換するというコンセプトは弓の歴史に度々登場する。ヴィヨーム(J.B. Vuillaume)が1831年頃に発明したセルフ・リヘアリングボウは二つの点において優れていた。一つは音楽家が工房に行かずとも自分で好きな時に弓毛を交換できたこと、もう一つには、フロッグは弓のスティックに固定されており、弓毛の調節時に弓のバランス自体が変わることがないことだ。弓は使用しているうちに弓毛が伸びてフロッグの位置が変わり、バランスが変わる。この弓はフロッグ内部が空洞になっており、毛束を引掛けた金具がフロッグ内部で移動することによって毛のテンションを調節する為、弓のバランスが変わることがない。これらの弓は当時25フランで販売され、ドミニク・プカット(Dominique Peccatte)やクロード・ジョゼフ・フォンクローズ(Claude Joseph Fonclause)などヴィヨーム工房を代表する職人によって作られた。ごく最近までフランスでは伝統的に10時間以上しゃべらず黙々とワークベンチに向かう弓製作が行われてきたが、当時の職人にとってヴィヨーム工房での仕事は大変であったとしても、とても面白かったのではないか。「またボスが何かわけのわからないことを言い始めたよ」などと話していたのだろう。
時代はくだり、現在活躍する弓職人にジルズ・ネア(Gilles Nehr)というセルフ・リヘアリングボウを作る人がいる。初めて彼の弓を見て、弾いた時に大きなショックを受けた。我々の知るところのバイオリンの弓とは大きく形の異なるその弓はとても弾き易く、弓のあり方について考えるきっかけを与えてくれた。きっといつの日か彼の弓はヴィヨームの弓と並び賞され歴史に名を遺す筈だ。