"ライプツィヒ 1843年6月13日
......今のところ、学校には良い音色が響き渡っていると思います。若者は学びに専念して、興味を持って取り組んでいますし、多くの先生からの課題で手一杯だろうと思います。君のところのモーリッツは直観で上手くやっていて、我々にとって難しいことは何一つないですね。彼はきっと大丈夫です......
メンデルスゾーンは彼らがどのようなことを出来るのか見る為に、課題として生徒達に即興で曲を作らせています。ただでさえ難しいのに、彼らにカルテットを作るように指示したりしていますね。実践的なことと抽象的な学問であるハーモニーとメロディーを織り交ぜて教える彼のやり方はとても賢いと思います。最近私はプライベートレッスンをやっていると一人の生徒に力を注ぐように教え方を変えねばならず、バランスを取るのが難しいと感じます。イタリアのコンサーバトリーで必要とされる7年の修業期間はここには当てはまりません。1年か長くとも2年があれば生かじりの様々な知識を詰め込むのに十分だとされていて、もし生徒達が幸いにも正しい道を見つけて歩むことが出来たならと我々は願うばかりであります。しかしながら何とも粗削りな状態で彼らを送り出さなければならなかった割には、後年彼らの作品を見ると悪くないことに安堵するのです―いや、そうではないな、彼らが学校を去った時点で埋もれていたものが大いに成長したのだと思います。詩人を製造することは出来なくて、詩人は生まれるものです。そして詩は全ての根本にあるのです。芸術家を形にするために抽象を教え、正しく書くことを教えて、それだけを彼らが学べば教師として十分だと思います。大半の人は書くことを知らないだけで、生まれながらにして詩人なのですから......”
(The Letters of a Leipzig Cantor: Being the Letters of Moritz Hauptmann to Franz Hauser, Ludwig Spohr, and other Musicians, VOL. II Page 7-8 鎌田訳)
何かを遺すのであれば記録して情報にするか、人を育てて後を託すしかない。師匠から弟子へ受け継がれていく教えの在り方が大きく変わったのが、18世紀末から19世紀半ばにかけての事である。この1843年はブラームスが10歳で演奏会デビューをした年で、この頃ドイツではまだ1対1のレッスンが主流であった。フランスでは先んじて1795年にコンセルヴァトワールが既存の音楽学校を統廃合して設立された。コンセルヴァトワール、コンサーバトリー(英)、いずれもコンサベーション、保護や保存といった意味を持っており、一方では革新を生む原動力ともなったが、伝統を保存していくことがそもそもの役目である。クラシック音楽はこれに命運を託した。
ヴィオッティーの時代、トゥルトから連綿と続いてきたフランスの弓作りは1960年代に次世代の担い手がいなくなるという存亡の危機を迎えた。これには幾つか理由がある。まず戦争によって徒弟システムに断絶が起きたこと、そして昔ながらの徒弟制度自体が時代にそぐわないものになったことがある。伝統的に物作りの現場では12歳になると見習いとして働き始めた。ビヨームの時代にはもっと小さい頃からやっていただろうが1900年前後には公立の小学校があり、11歳で学業を終えてからということだろう。昔の工房の集合写真を見ると年端も行かぬ子供だらけで、現在の感覚では児童労働(虐待)と捉えられかねないが昔はそれが当たり前で、サルトリーが自分の工房を開いたのは若干18歳だという。物心がつく頃より父親の仕事を見よう見まねで覚えたからこそ為せたことではあるが、自身が何たるかを知る由もなかった自分自身の18の頃を想うと思わず色々と考えてしまう。
第2次世界大戦後には中等教育が整備され、楽器作り以外の道を選ぶ人もいただろう。例として相応しくないかもしれないが現在楽器の一大産地として知られている中国では、近年若い担い手が他の産業に職を求める為に職人の高齢化が進んでいると、最近ある関係者が話していた。ドイツやイギリスもそのようにして弓や弦楽器作りを手放していった。戦時下においては教える側もそれどころではなかったということもあっただろう。ベルナール・ウーシャのように実際に各地を転戦した者もいて、確かな腕を持ちながら自身の工房を生涯持たなかった職人もいた。ベルナール・ウーシャは結果として雇われの身であった為に、候補者の中からヴァテロ―に選ばれてミルクールへ帰還し製作学校で教えることになる。
もう一つ危機的状況を作った大きな原因は、当のフランス人達自身がやった戦前の量産にあると言える。(続く)