ライプツィヒ 1844年8月13日
...今度のバッハのロ短調ミサ曲(Mass in B minor)は楽しんでやろうと思います。勿論生徒達はラフな仕上がりで、誰も彼らがちゃんとあるべき歌い方をするとは思っていません。いずれにせよ何らかの形で上演をしようと考えていて、どのみちある程度の仕上がり以上にはならないのであれば、6カ月もかけてリハーサルをするようなものではないと思います。
何とも不運なことにテノールのパートが現在のピッチよりだいぶ高いのですが、楽器の為に別のキー(調)に移すことも出来ません!しかしながら、何もやり遂げることが出来なくなるのであまり大騒ぎをしないことにします。バイオリンのピッチを下げてもしょうがないのです。それをする為には世間の支持、協力を得なければなりませんが一般的な公正さを持ってすればあまり多くを望むべきではないでしょうね...
ゲーゼ(Niels Wilhelm Gade 1817~1890)はとても賢い男です。まだ色々学ばなければなりませんが才能がありますね。彼の作品の多くは単なる色彩(colour)であり、その面白味の為に色に依存し過ぎています。ライプツィヒの彼の支持者達は、カーラート(Kahlert)がムジカリッシェ・ツァイトゥング(musikalische zeitung音楽新聞)においてゲーゼのシンフォニーを絶賛しなかったことに対して心底腹を立てていますね。カーラートの言っていることはごもっともで、良い作曲とは面白味の大部分を失うことなく編曲に耐えうるものでなくてはなりません。良い絵は良い版画の原画となります。モーツァルトはピアノでAからZまで弾くことができますよね。ベートーヴェンの第九では勿論多くの箇所において犠牲になる箇所があるでしょうし、編曲の試練に耐えうるかどうかのみが曲の良し悪しを決めるということを私は言いたいのではありません。私が言いたいのはインストルメンテーション(楽器の使用、編成)が主体となってはならないということです。メンデルスゾーンはライシガー(Reissiger)、マルシュナー(Marschner)、リンドパイントナー(Lindpaintner)といった作曲家をいつものようにバッサリと切り捨てています。もしかすると結局ドレスデンの人々が最も浅はかなのかもしれません。あなたに彼ら一人一人のものを贈りますよ、緑色のブラシで仕上げてあって、今度は青色でね、空虚で骨格の無い曲ですよ。リンドパイントナーやライシガーは何故オペラを書き続けるのでしょう?参っちゃいますね。二人とも1ダース程それぞれ書いていますが、誰一人として聞いたことがありません。ベリーニ(Bellini)は5つのオペラを書いて(実際には10曲)世界中でよく上演されています。彼らのオペラが上演されたとしましょう。あどけないこの生物達は、一般聴衆には勿体ないほどの輝かしいドイツの傑作を作曲したと妄想するでしょう。だから上演されないのだと。ひょっとすると彼らの作品はドン・ファンやフィガロよりよっぽど洗練されたものなのかもね!どういう訳だか世間の人々はモーツァルトが好きなのです。
君も知っていると思うけど僕は、あの形が無いことが特徴で単なる不可算にすぎない、いわゆるロマン派があまり好きではないのです。確かに今までずっと形(形式)にうつつを抜かしてきた芸術は新しい材料が必要だと思います。しかしこれらの新しい主題は始め何となく偶発的に起きたように、芸術の法則と関係がないように、原理に乗っ取っているわけではないように―見えると思うのですが、新しいことはいつもそのようなものでね。ジョスカン(Josquin~1521)を例に挙げると、彼は同時代の音楽家からは異質で奔放な者だとされていました。ヴェネツィア派やベートーヴェンも同じです。初めはそれが我慢ならないと人々は思いますが、もしその作品の中に少しでも良いものがあるのであれば、一番良いものを除き、それまで存在していたもの全てを色褪せてセンスがないものに変えてしまいます。最上のものはそれ(新たにつくられたもの)によって無くなることはありませんよね。いやそれどころか、最上のものは新たにつくられたものの周りを登り、寄生植物のように栄養を吸い取って枯れて再び若く成長する為に木を離れる、そのようなものだと思います。結局のところ僕はライシガーの全ての作品よりもベルリオーズ(Berlioz)の欠片のほうが良いのです。我らプライセ川の水の流れのようなものです―滝や急流があって、時には輝かしい虹が水しぶきの間にかかります。ベルリオーズは最近、器楽(Instrumentation)についての大作を書き上げプロイセン国王に献呈しています。シュレジンガー(Schlesinger)が出版し、10ターラーで売っています。おそらく様々な種類のドラムスティックについて述べている箇所において既に5ターラーの価値があって、残りの5ターラーについても著書の残りのページで回収できると思いますよ。大した称賛ではないんだけど、この主題について書かれた本では最も才気あふれるものですね。ドイツ人はフランス人より愚か者です。我々の中で最上のもののみが良くて、もし良いものがあったとしたらそれはとても、とても良いのであります...。
敬具、
モーリッツ・ハウプトマン
The Letters of a Leipzig Cantor: Being the letters of Moritz Hauptmann to Franz Hauser, Ludwig Spohr, and other musicians, VOL. II, pp 15-17 鎌田(訳)
モーリッツ・ハウプトマンの手紙はライプツィヒのカントール(教会の音楽監督)に就任する以前、カッセルにいた頃の1825年から1867年までに知人、友人に宛てた手紙を1892年にまとめ出版したものである。抽象表現が多く、分かりづらい箇所もある。若き日々にはシュポアに傾倒し後年ベルリオーズを支持する一方で、おそらく古書店などを巡りフレスコバルディ(Frescobaldi1583~1643)やバッハの楽譜の収集に奔走していることが手紙に記してあり、ジョスカンやパレストリーナ、ガブリエリなど多くの名前が登場する。ヴィオラ・ダ・ガンバのパートに向き合う様子もあり、この時代に彼らが古の音楽を収集し、整理、保管しておいてくれたおかげで失われずに済んだものも大いにあるだろう。19世紀のバロックリバイバルというと世紀末のものを指すと思うが、ハウプトマンがこの時代にやっていたことは一体どのような位置づけになるのだろうか。アヴァンギャルドとノスタルジアという芸術の核心にあることにも早くから気付いており、この時代に自身の立ち位置を理解して、更に遥か彼方を見通していた人物がいたことに驚きを感じる。
ドイツではロマンティックボウ(モダンボウ)の普及が19世紀中頃までなされなかった。その理由はもっとナイーブなものだと考えていたが、どうやらそういうわけではないらしい。