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工房探訪 Part3-シャルル・アルフレッド・バザン



今自分が使用している建物はかつてZEKE(ジーク)という名前のバイク屋さんであった。ZEKEとは零戦のコードネームである。そして僅かな期間ではあるが自分に旋盤仕事を教えてくれた方は昔、中島飛行機で仕事をしたという旋盤工で、自宅横の小さな作業場で仕事をしていた。戦争とは程遠い仕事をしているとは思うが、ふとしたことで繋がりを意識する時がある。


トゥルトが時計職人であったことはよく知られているが、そもそもフランスで時計の技術が発展したのは軍事と関係があったという。バザンの工房や雑然としたワークベンチの写真を最初に見た時に、かつて仕事を教えて頂いた旋盤工と、彼の同じく雑然とした作業場を思い浮かべた。やっていることは全く違うがどこか似ていると思ったのだろう。後ほどわかったことだが、シャルル・アルフレッドは1936年に飛行機のプロペラを作っていたことがあったというから、自分のこの時の直観はあながち間違いではなかった。とても器用な人であったらしい。当時、弓作りより他の仕事をした方が遥かに稼ぎは良かった為、戦後に父親の仕事場を引き継ぐまでは弓作りの他、様々な仕事を転々とした。父親には何度も給料を上げてくれと頼んだがその度に断られたことを(自虐的なユーモアで?)晩年のインタビューで述べている。バザンのような弓の名門でさえそうであったのだから、ジャン・ジャック・ミランのような一部の成功者を除き、弓作りには担い手がおらず20世紀に衰退の一途を辿ったというのも頷ける。ヴァトロが復権を掲げたミルクールの学校において教育方針を決める際に、これらの現状をどのように打開すべきか考えたことは言うまでもない。



シャルル・アルフレッドの工房である。壁際には旋盤が置いてあり、ミーリング加工が出来るようなものも取り付けられている。大半の作業は手でやっていた筈だが、例えばフロッグの溝などはこれで加工していたのかもしれない。ワークベンチの上には弓作りに必要なほぼ全ての道具を出してある。穴をあける為の手動のドリル(フォレ)、反り入れ用の炭を入れるダッチオーブン、重量を計測する為の天秤などが見える。弓用の鉋や、肉厚で特徴的な大きなハンドルを持ったナイフも見える。バザン工房にかつて在籍していたフェティークはより細身のナイフを使っていたが、伝統の中で道具の仕立ては各々に任せられていたようで、道具の仕立て方からどの様な弓を作ったかを窺い知ることが出来るので面白い(Tools for Bowmakers)。昔も今も、ナイフは髭を剃る為の古い剃刀を使って製作することが多い。良い鋼を使用しているからだ。フェティークのように繊細な弓を作った人は、使ったナイフもどことなくエレガントである。一方、シャルル・アルフレッドのようにどことなく武骨な弓を作った人が使ったナイフは、やはりごついのである。スティックのメネジの穴の位置を決める為の真鍮の板で作られたゲージも見える。ビヨーム工房もかつてそうであったように、伝統の中ではネジ穴やヘッドの高さなど押さえるべき寸法は決まっていた筈だが、作る人の形の解釈やセンス、使う道具、そして誰の為に弓を作っていたかによって様々な弓が出来ていったのだと思う。横からのアウトラインは同じようでも立体への意識の差で弓はペカットになり、アンリにもなる、そのようなものだと思う。


戦中戦後の困難な時代にあっても、責任感から家業を最後まで全うしたと晩年のインタビューで述べているシャルル・アルフレッドは、古き良きミルクールを代表する職人であった。

多くの時を共にした私の友人の弓職人は、かつてウクライナ国立歌劇場でバイオリン奏者をしていた。いつしか笑顔の彼女に会うことが来ることを今は願うばかりである。


参考文献:LES ARCHETIERS DE LA FAMILLE BAZIN (写真出典:P326,P327,P490)

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