アンダーハンドで弾く姿がかっこよくて冒頭からノックアウトである。
「ドラゴネッティであれば或いはこんな感じで弾いていたのかもしれない」そのような想像を掻き立てるだけの大きなインパクトがドラゴネッティにはあった。
弓の歴史を調べる上で次にやってみたいことはドラゴネッティ・ボウ(イタリアン・ボウ)を調べ、分類すること、そしてタルティーニの遺品を自分なりに調べて彼がどの様なセットアップでどの弓を使っていたのかを見てみることである。タルティーニの遺品はイタリアのコンセルヴァトリオジュゼッペタルティーニの図書館にある。
ドラゴネッティ・ボウは目配りをしていると今でも出くわすことがあって、実に多くの形や異なる素材で作られたものが存在する。
まずパガニーニ同様、ドラゴネッティ本人がその長い生涯で多くの弓を試している。青年期に使っていた弓と晩年使っていた弓では形が異なるので、様々な可能性を人生の各ステージにおいて探っていたと思われる。
当時欧州各地で多くのコピーが作られたことも色々な弓が作られたことに関係している。ロッシーニはパリ滞在時の1827年にドラゴネッティにコンセルヴァトワールで教壇に立つことを打診し、コンセルヴァトワールにドラゴネッティ・ボウを取り寄せ彼のチューニングと共に研究させたという。ドラゴネッティはこの時、渡航せずに指示書と共に自身の弓のコピーを何本か贈っている。もしこの時にドラゴネッティがオファーを受けてフランスに渡っていたのであれば、或いは弓の在りようは変わっていたかもしれない。また1840年にはバイオリニストのカルロ・リピンスキーがドレスデンにあった王立博物館でコピーを展示する為にドラゴネッティに弓を送る依頼をしている。
ドラゴネッティ・ボウとその奏法は各地で研究され、土着の弓作りと融合して特徴のある弓が生まれていく。
弓のような消耗品が時の試練を経て遺っていく為には圧倒的な数が必要だ。今も我々がオリジナルを目にすることが出来るのは割と最近までこの弓が使われていたこと、そして多くの弓が流通したことも関係している。イギリスではドラゴネッティの影響を受けて20世紀に至るまでこの弓が普通に使われていた。今でも多くのドラゴネッティ・ボウがイギリスから出てくるのはその為である。1903年に出版されたバザンのカタログには、ボッテジーニ、フレンチボウの下にドラゴネッティモデルとあり、図を見るとクリップ・インの弓も20世紀初頭のミルクールで作っていたことがわかる。ボッテジーニ、ドラゴネッティと銘打ってオープンフロッグの弓やクリップ・インのドラゴネッティ・ボウをバザンの工房が20世紀初頭に作っていたことが自分には大きな驚きであり、面白い。
1901年にカミーユ・サンサーンスを中心に据えてla Societe de concerts des Instruments anciensが作られ、エドゥアール・ナニーも参加しており、この会で演奏する際には3弦のコントラバスを使用したという。1903年のバザンのカタログにあるドラゴネッティ・ボウが彼らの要望によって作られたものなのか、ドラゴネッティの時代から連綿とフランスのどこかで続いていたものなのかは今の自分にはよくわからない。いずれにせよ20世紀初頭は我々が思っている以上に前世紀の残り香が、色濃く残っていたのだろう。
(続く)
参考文献
・Domenico Dragonetti in England (1794-1846) The Career of a Double Bass Virtuoso,
Fiona M. Palmer, Clarendon Press Oxford
・Les archetiers de la famille Bazin 1824-1987 Raffin, Le Canu, Bigot, Dubroca, Mabru