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ドラゴネッティはどのような人であったのか


ドラゴネッティ本人の言葉が残されている。


‘Gentlemen, me soory no ladies; very fine de English donne (“Bravo! Bravo!); ma, I tank you ten tousand time! I trink all de helths. I no speak fine, mais-my vife, de contra-basso, he take all de speak, and she speak Got shave the Queen ‘besser als’ noting! I make you all de complimenter and der Duc, mille grazie, and I sall propos the Lord Salter (Saltoun) tree times tree; she my friend, and hop it come presto from der Chine, pieno di Danaro! E viva dar Lord Salter!

Pg. 35 Domenico Dragonetti in England (1794-1846) Palmer


何のこっちゃよくわからない。茶目っ気のある魅力的な人であったそうだが、彼の話をきちんと理解するのには時間がかかったらしい。ドラゴネッティは長い時をイギリスで過ごしたが、英語をマスターすることは終ぞなかったという。数年間ウィーンに住んでいたこともあり、会話の中に英語、ヴェネツィア語、フランス語、ドイツ語などをごちゃ混ぜにして話した為、長い時を共にした近しい人でないと彼の話は理解できなかった。音楽仲間のヴィンセント・ノヴェッロ(Vincent Novello1781~1861)やロバート・リンドリー(Robert Lindley1776~1855)は彼の音楽と人となりを愛した良き理解者で、ドラゴネッティを公私にわたり晩年までサポートし続けた。普段は1本、冬の夜には2本のロウソクに火をつけて譜面台を照らし、時計代わりにして、昼夜を問わずコントラバスを弾き続け、その左手は鍛冶屋の万力に例えられる程握力が強かったという。晩年には老いによる衰えや病を想起させる事実無根の記事がミュージカル・ワールド紙に掲載されると、これに対して苛烈に抗議し、訂正を求める声明文をノヴェッロに代筆してもらっている。1839年、ドラゴネッティ76歳のことである。人生引き際が肝心などとは一切考えなかった人であり、最後までプロフェッショナリズムを貫きファイティングポーズをおろさなかった。最も自分が実際何歳であるかよくわかっていなかった節もあり、自分の喋る言葉同様、自分の歳などどうでも良かったのだろう。


ドラゴネッティが活躍した時代、イタリアやイギリスでは4度調弦の3弦が主流で、下からA,D,Gでありフランスでは5度調弦でG,D,A、ドイツでは4度調弦の4弦で、E,A,D,Gであった。ドラゴネッティは5弦の楽器なども試したそうだが、結局3弦とドラゴネッティ・ボウの組み合わせが音に良いとしてこれを使い続けた。当時イギリスのコンバス奏者は、この為に最低音をオクターブ上で弾くことが許されていたという。チェロのリンドリ―と共に写真に写る最晩年のドラゴネッティは一人こちらを見据えており、手にしている弓は細身で、ややアウトカーブしていて壮年期のものより短い。1839年の論争では苛烈な抗議をしてみたものの、したたかな一面も見えるドラゴネッティである。実際には軽い材料で出来た弓に持ち替えて省エネで脱力して弾いていたのかもしれないし、どのような弓をこの時期手にしていたのかわからない。1846年4月に彼は世を去るが、イギリスにおいて彼の与えたインパクトは大きく、20世紀に至るまでドラゴネッティ・ボウは長く使用される。弓ではボッテジーニのフレンチスタイルを意識したであろうオーバーハンド兼用の弓も作られており、楽器の仕様と併せて当時の色々な模索を窺い知ることが出来て面白い。



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