日本のような島国である社会が大きく変わるきっかけは総じて外圧である。律令国家の出現や明治維新がその最たるものでやると決めたら極めて動きが速く、後代の我々が眺めてみても狐につままれた気分になる。欧州など大陸において事情は大きく異なり、争いに加え、平和な時代における人々の往来があげられる。グランドツアーと呼ばれる大旅行が文化、芸術に与えた影響は大きい。
主題である弓において最も大きな出来事はモダンボウの出現であって、フランスにコンセルバトワールができて、構え方や演奏方法が統一されると18世紀に数多作られた様々な弓は姿を消し、瞬く間にモダンボウに集約されていく。弓の仕事をしているので、当初より、「トゥルトがフルールのついたモダンボウを発明し、コンセルバトワールが出来て...」というくだりは知っていたが何故そのように急速にモダンボウが広まったのかということや、どのようにして誰がいつどこでなど、詳しいことは分かっておらず、また今まで深く考えないようにしてきた。この一年、18世紀までの弓や音楽事情について大まかに調べたので、19世紀の弓、楽器、演奏についても調べていきたいと思う。17世紀までや18世紀に比べ、膨大な資料が遺っているので出来る範囲で自分なりに一つずつ情報を掘り起こしてみたい。
ルイ14世が死去した1715年以降、ヨーロッパでは比較的平和な時代が訪れて人々が欧州各都市を周遊するグランドツアーが行われるようになる。グランドツアーはもともとイギリスの貴族の子息などが、大学での学びを終えた後に家督を継ぎ、職に就く前のギャップイヤーに行った欧州各都市を周遊する大旅行のことである。とあるイギリス人が行ったイタリア旅行の記録では海峡を渡り数週間をパリに滞在し、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ナポリを巡りイギリスに戻るというものであったが、ロシアやドイツ、フランス、オーストリアからも多くの旅行者がイタリアを目指し、逆にイタリアの音楽家や芸術家などはパトロンを見つけ同じルートを北上した。欧州各都市を巡る演奏旅行が盛んに行われ、モーツァルト一家の演奏旅行がもっとも有名だが、18世紀にイタリアの音楽、そして弓が欧州各都市に一気に広がっていくのもこうした背景がある。19世紀にはフランスのヴィオッティー一派やドイツのシュポア、イタリアからはパガニーニが演奏旅行を行いお互いに影響を与え、モダンボウがひろまるきっかけを作っている。
この時代における一級の資料はルイ・シュポア(Louis Spohr)が遺した日記である。青年期から日々の出来事を非常に細かく記しており、彼が出会った音楽家や当時のコンサート事情、職場での待遇など、多くが記されていて面白い。当初シュポアには教えを受ける候補としてヴィオッティーとフリードリヒ・エック(Friedrich Johann Eck 1767-1838)に打診していたが、断られ代わりに弟のフランツ・エックに師事することになる。もしこの時にヴィオッティーに師事していれば、ロードやバイヨ、クロイツェルのようにコンセルバトワールにて活躍していただろうし、フリードリヒ・エックに師事していれば、生涯何度もグランドツアーにでることもなかったかもしれない。
シュポアが師のフランツ・エック(Franz Eck 1774-1804)から最初のレッスンを受けたのはハンブルクで1802年4月30日のことであった。このハンブルクにてシュポアはエックの要求(強要?)によってトゥルトの弓を購入している。エックは当時マンハイムスクールの第一人者であるものの、トゥルトの弓にいち早く反応したようである。ドイツ語圏では、同じくマンハイム出身のヴィルヘルム・クラマーが用いたクラマータイプのトランジショナルボウが主流であって、19世紀の中頃までヴィエニーズボウ(ウィーンの弓)と呼ばれる弓が存在している。トゥルトの弓がどのようにして、ハンブルクにて売られていたのか大いに興味があるが、よくわからない。この年、シュポアはエックに同伴し、ハンブルク、ルートヴィヒスルスト、シユトレーリッツ、ダンツィヒ、ケーニヒスベルク、ミタウを訪れ、目的地のサンクトペテルブルクまで旅をした。
続く
参考文献
・Louis Spohr, A Critical Biography, Clive Brown:CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS
・Music and the Grand Tour in the Eighteenth Century
Hollander Distinguished Lecture in Musicology, Michigan State University, 15 March 2013