1809年の若かりし頃にシュポアのOverture in C minorを聴いたモーリッツ・ハウプトマン(Moritz Hauptmann)が遺した回顧録を見ると、当時音楽が人々にとってどういうものであったのかを垣間見ることができる。
“Overtureを聴いた私は泣いた。家路においても泣き続け、家でも苦しみ泣いて、その後数日の間、泣き続けた。今も私は一人床に膝をつき、頭を椅子の上に載せて、その音楽を想い、喜びと絶望に浸りながら泣いているのだ。その後の人生で起こった全ての出来事、どれ一つとってもこの時の経験に勝るものはない。当時の自分にとってシュポアはまさしくアイドルであった。”
何かに感動して涙することはあるだろうが、音楽を聴いて数日の間むせび泣いたことがある人がどれだけいるだろう。19世紀当時の暮らしの環境に身を置くか、情報や刺激の一切を遮断すれば、或いはそのようなこともあるのだろうか。これを機にハウプトマンはシュポアに傾倒し、後にシュポアの宮廷楽団に入りバイオリニストとして活躍することになる。教師としてのハウプトマンの教え子にはヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)やフェルディナンド・ダヴィッド(Ferdinand David)も名を連ねており、彼らの多くは後日19世紀に最も影響力のあったバイオリニストとしてシュポアの名を挙げている。
シュポアの演奏はマンハイムスクールとフレンチスクールを併せたものだったという。マンハイムスクールというのはエックのことであり、フレンチスクールというのはロード、クロイツェル、バイヨに代表されるコンセルバトワールのことで、若きシュポアは中でもロードの演奏に傾倒した。1803年6月、エックと別れた後、サンクトペテルブルクより海路ドイツに帰国し、7月にブラウンシュヴァイクに戻ると、ロシアへ向かうロードが街に立ち寄るとの話を聞きつけ、2度演奏を聴きに行っている。この時ロードの演奏を聴いたことを最後にシュポア自身の学びは完了し、以後様々な音楽家との交流と自己研鑽によって演奏と作曲に磨きをかけた。
パガニーニには生涯で2度会っている。イタリアへ家族を連れて演奏旅行をした際、1816年10月18日にヴェネツィアで行ったコンサートを聴きに来たパガニーニにコンサートの前後に会って言葉を交わしている。1815年10月の終わりにゴータを旅出ったシュポア一家はマイニンゲン、ヴュルツブルク、ニュルンベルク、ミュンヘン、フランクフルト、ダルムシュタット、ハイデルベルク、カールスルーエ、ストラスブール、ミュンスター、ベルン、チューリッヒの各地で演奏をしながらイタリアを目指した。当時ドイツの音楽雑誌などによると1812年頃から欧州の各誌はパガニーニに注目し始めており、シュポアをはじめ多くの音楽家が彼の演奏を聴こうとした。同胞音楽家であるマイアベーアはパガニーニの追っかけを続け、トスカーナで行ったコンサートツアーについてまわり、18回もコンサートを聴きに行っている。この時代、何度も演奏を聴きたければ追っかけをする他なかったのである。
一方シュポアはヴェネツィアでのコンサートの2日後に、賛辞を述べる為に会いに来たパガニーニに演奏を聴きたいと頼んだが、この時パガニーニは「自分のスタイルは大衆をおどろかせる為に計算されたものであり、同胞のバイオリン奏者に弾くためには異なる演奏をしなければならないが、今はそのムードではない」と言って固辞した。今現在の評価とさほど変わらずパガニーニ本人が自分の演奏についてこのように述べていることが風景として面白い。もしまたローマかナポリで会うことがあればシュポアの前で演奏を披露する約束をしてパガニーニは帰っていったが、シュポアが再びパガニーニに出会うのは14年後の1830年のことである。
この年、シュポアはカッセルにいた。1830年の6月、カッセルに来たパガニーニの演奏をシュポアは初めて聴き、この時の演奏の印象を次のように記している。「彼の作品や演奏には類い稀なる才能と、拙さや趣味の悪さが不思議と相まって存在しており、演奏に惹き込まれては目が覚めて放り出されてしまう。」
パガニーニやその一派(支持者)は演奏の地平線を拡げつつあり、その演奏スタイルはスタンダードになりつつあったが、シュポアはこれを頑なに拒んだ。これはシュポアだけではなく、当時マンハイムスクールやコンセルバトワールで教育を受けた多くの人が同様の反応を示している。ハーモニクスでは「1/4、1/3、1/2のナチュラルハーモニクスのみが使われるべきであって、人工ハーモニクスのような子供じみた異質の音を使ってメロディーを奏でるべきではない。」「高名なパガニーニによって現代に蘇った昔のハーモニクス奏法がどんなに魅力的であっても、若い奏者は他にある学ぶべきことを後回しにしてそのような技術に現をぬかすようなことがあってはならない。」と著書に記している。
またViolinschuleのボーイングでは跳弓(springing bowing)の技法を全て除外している。今では弓の真ん中を使い跳弓で弾くような箇所は、弓先でのディタッシェかスタッカートで鋭くディタッチドされた音を連続し一弓でアップボウかダウンボウで弾くもので行い、弓の前半分を使い毛束が弦を離れることなくこれを弾いた。当時これはシュポアのスタッカートと呼ばれていた。後年後進のヨアヒムは、古い曲を演奏する際に跳弓を使ってよいものか分からずにメンデルスゾーンに助言を求めている。メンデルスゾーンはこれに対し、「良く聴こえるところや使ったほうが適正な箇所には使えばよろしい」と答えている。ただメンデルスゾーン本人はシュポア同様に跳弓の音は薄く、軽すぎると感じていたようだとヨアヒムは述べている。
時代は移ろい、音楽が変わっていく中においてシュポアは自身の楽器のセットアップなどは変えていったが、ボーイングなど演奏の根幹では1803年に別れたエックの教えを生涯守り通した。“Touch Stone”という言葉がある。試金石のことだが、人生においてそれに触れたことによって生き方が変わるほどのきっかけや物のことを言う。人によって何に反応するかはそれぞれである。ハウプトマンにとってはシュポアのOvertureがそれであり、マイアベーアにはパガニーニがそれであった筈だ。シュポアの“Touch Stone”はエックとの出会い、そして彼とサンクトペテルブルグに旅をしたことがそれであったのではないかと思う。全ては導かれていると言った人がいたが、歴史を調べているとそう感じずにはいられない。
参考文献
・Louis Spohr, A Critical Biography, Clive Brown:CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS
・Louis Spohr's celebrated violin school.Translated from the original by John Bishop
・Nicolo Paganini: his life and work Stepen Samuel Stratton ニコロ・パガニーニの生涯 角英憲(訳)