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モーリッツ・ハウプトマンの視点 Part4


”カッセル 1835年4月3日


悪天候そして(持病の)頭痛が重なり、しばし筆を取ることが出来ませんでした。手紙は気分が乗らなかったので、加筆をすることもなくそのままメンデルスゾーンに転送しました。あなたに手紙を書くことさえ億劫だったのです。またメンデルスゾーンのように活発、独創の化身のような人にとって僕は愚鈍で古臭いのではないかとも思うのです。来週日曜日の朝にシュポアの家で我々はメンデルスゾーンのオクテットを演奏しますよ。Nebelthauが用意しています。メンデルスゾーンを除いて、私が新作を楽しむことが出来る作曲家は指で数える程しかいません。幾つかのショパンのエチュードは同じように高く評価をします。しかしそれでもなお自分にとって乗り越えなければならないものがあります―メンデルスゾーンが完全に解き放たれている、少しばかりのフランスのロマンティシズムです。

それにしてもベルリオーズのEpisode de La Vie d’un Artiste(Episode from the life of an artist)は断頭台への行進もあって(?)、何と啓発的なシンフォニーなのでしょう!彼について何か見聞きしたことはありますか?皆耳が痛くなるほどに言うのですよ。“ちょっと待った!あの天才が(若い時の)放蕩をしている時にこそ、傑作だと思うようになるんだよ”。断頭台への行進シンフォニーからスタートするなんて、何ともいかれた天才じゃないか!モーツァルト、ハイドン、そしてベートーヴェン、みな明るくクリアなピアノフォルテ・ソナタから始めたでしょう。もちろんベルリオーズや彼の仲間には才能が、とても素晴らしい才能があることを否定するわけではないのだけれど、美的なセンスがないと思うのです。...”

 (The Letters of a Leipzig Cantor,Being the Letters of Moritz Hauptmann to Franz Hauser, Ludwig Spohr and Other Musicians VOL.1 Pg. 120 鎌田訳)


ハウプトマンは後にベルリオーズに最大限の賛辞を贈るようになるが、初めの出会いはかなりショッキングなものであったらしい。


音楽が大衆化して一般に広まっていく様は、作っていた楽器や弓、従事者の数で見た方が自分にとっては肌感覚があって分かりやすい。パリのコンセルヴァトワールでベルリオーズの“イタリアのハロルド”の初演があった1834年頃に、ミルクールではフランスの量産が幕を明けた。JTLやラベルト(Laberte)によるフランスにおける量産は、パリでビヨームに学んだブトー (Buthod)まで遡ることが出来る。1834年にミルクールでブトーが立ち上げた楽器工場は、1836年には40人の職人を抱え年間で850本の楽器を作っていた。この工場は形と名称を変えながら成長していき、1861年にはJerome-Thibouville-Lamy、JTLとなって多くの楽器を製造した。1867年にはパリとミルクールの拠点において併せて240人が働いていたという。1893年には商売をニューヨークとロンドンにまで拡げ、楽器を売りに売った。1912年には1000人を抱えるまでになったが、品質に劣る量産を続けた為に結果として徐々にシェアを落とし、多くの従業員を解雇せざるを得なくなった。まず音楽家の支持を失い、古くから関係を築いてきたパリの楽器商もミルクール製の楽器や弓を買わなくなった。そして1924年に失火と他社との競争によりJTLは自己破産に追い込まれた。戦争など様々なことがあったが品質の低下が大きな原因であったという。  


続く


参考文献  The Bernard Ouchard, Bow-Making School in Mirecourt, France, from 1971 to 1981. Olivier Fluchaire

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