幼少期の体験や経験が、それとなく自身の行動の指針になっていると気付くことがある。シュポアは幼少から青年期までの間に実に多くの楽器や演奏に触れている。歌、バイオリン、ピアノ、ハープに始まり、ある時はコンサートに参加してナポレオンを見たいがために、ホルンを口を腫らして一夜漬けで覚えたなどという信じがたい話もある。山を歩いては鳥のさえずりを五線譜に書き記し、当たり前のことだがバイオリンではなく音楽をやっていたのだなと改めて思う。これらの経験が全て作曲に活かされていることは言うまでもない。幼少から青年期のシュポアを夢中にさせたのはモーツァルトである。シュポアはモーツァルトへの敬愛の念を生涯持ち続けた。他の音楽家には辛口の評価を一つ二つ付け加えることを忘れないシュポアには珍しく、モーツァルトに対する批判は一切ない。
この時期に触れた音楽で作曲を志すきっかけとなったもう一人の音楽家はケルビーニ(Luigi Cherubini 1760~1842)であった。郷里のブラウンシュヴァイクにてケルビーニの “Les Deux Journees”を観た際にはその夜、その場で楽譜をもらい受け、夜通し読み耽ったとある。後にこの一つのオペラが自身を作曲に向かわせたと述べている。
イギリスでのコンサートツアーを終えロンドンを後にしたシュポアは、1820年の12月にパリを訪れた。ゲートを越える際にかつて憧れた音楽家達についに会える喜びで胸の高鳴りを覚えたと手記に綴っている。そして真っ先にケルビーニを訪ねている。
パリでケルビーニを訪ねた際に、この音楽家は気難しく見知らぬ人とは距離を置くと事前に聞かされていた為緊張していたが、温かく迎えてくれていつでも好きな時に会いにくるように言われたことを、1820年12月15日に知人に向けた手紙に記している。パリではクロイツェル兄弟、ヴィオッティー、バイヨ、ラフォン(Lafont)、アブネック(Habeneck)、フォンテーヌ(Fontaine)、ゲラン(Guerin)などフレンチスクールのバイオリニスト達に会い、彼らの演奏についての所感を述べている。この時にバイヨとシュポアが親交を持ったのか定かではないがお互いの演奏をこの時見たことが後の“Violinschule”と“L’Art du violon”に繋がっていくのではないだろうか。
続く
参考文献:Autobiography by Louis Spohr