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トランジショナルボウ Part5-ドッドとトゥルトの風景



※「トランジショナルボウ Part4-ドッドとトゥルトの風景」―知人への手紙4通目において 続き


”ラフォンは完璧主義の為、年に数曲のみを選んで演奏し、一年を通して同じコンチェルトを良く弾きこんでから公演に臨むことで知られています。そのようにして得た彼の完璧な演奏を聴いていますので、一つのことを集中して行う彼の姿勢についてケチをつけるつもりはありません;ただ私には真似できないことです。毎日4時間、5時間と同じ曲を弾き続けることをどうやったら続けられるのか、更に言えばそのような機械的なモードで事を進めてやがて芸術のかけらですらもなくなりはしないでしょうか。

Pierre Baillot ピエール・バイヨ

バイヨは演奏の技術面において(ラフォンと)同じぐらいほぼ完璧で、彼の多彩なスタイルは彼が(ラフォンのように)必死になって同じようなこと(練習)をせずとも完璧なのだということを物語っています。自身の曲の他、古くからの曲や最近の曲ほぼ全てを彼は演奏します。ある晩行われたコンサートで彼はボッケリーニのクィンテットとハイドンのカルテット、そして自作の三曲―コンチェルト、エア・ヴァリエ、ロンドを演奏しました。彼はこれらの曲を完璧な純度と彼独特の表現で弾いていました。彼の表現は、それでも私には自然なものではなく人為的に作られたもののように聴こえ、そしてその人為的な表現をすることからもわかる通り、彼のパフォーマンスは型にはまったもの(マンネリ)と言えるでしょう。彼の弓使いは巧みで、表現が多彩なのですが、ラフォン程自在ではなく、よってラフォンの奏でる音より美しいものではありませんし、弓のアップ、ダウンを行う弓使いがはっきりと聴こえてしまいます。彼自身の作品はその正しさにおいて他のパリのバイオリニスト達のものより優れています;オリジナリティーがあることも否定できません;しかしどことなく人工的で、マンネリ化していて、ひと昔前のもので、聴衆の反応は冷ややかで感情を揺さぶられることもないのです。彼がボッケリーニのクィンテットを好んでよく弾くのをあなたもご存じでしょう。私はこれらの曲を12曲程よく知っているので、彼が演奏するにあたり曲のハーモニーの乏しさを補い、聴いている人にそのことを忘れさせることができるかどうかを見る為に、彼の演奏するクィンテットをかねてより聴いてみたいと思っていました。まあしかし彼の演奏がいざ始まってみると稚拙なメロディーや調和の乏しさ(ほぼ常に三重奏に近い)が際立ってしまい、今までに聴いた微妙な演奏の数々とあまり変わらないではないですか。バイヨともあろう人が書かれたその時代や当時の状況の中でしか価値を見出せないようなこれらの曲をどうして弾いてみようと思うのか全く持って理解出来ません。しかしここではこれらの曲がモーツァルトのクィンテットと同じように喜びを持って受け入れられていること自体、パリジャンが良いものと悪いものの区別がつかず、少なくとも半世紀は芸術において遅れていることの証拠ではないでしょうか。

アブネックが自作のエア・ヴァリエ、2曲を演奏するのを聴きました。彼は華やかなバイオリニストで難なく凄い速さで演奏します。彼の音と弓使いはやや粗い感じがしますね。


かのクロイツェルの弟で生徒でもある、若きクロイツェルは彼の兄が新たに作曲したとても輝かしく、優雅なトリオを演奏してくれました。彼が演奏した所作からは兄のスタイルが感じられ、彼らがパリで活躍するバイオリニスト達の中でも最も純粋なバイオリニストであることで私は満ち足りた気がしました。若きクロイツェルはやや病弱で体力に不安を抱えており、何か月も一切演奏をしないことがあります。よって、彼の音はか弱いのですが、他の面では彼の演奏は純粋で、元気よく、表現力に富んだものでした。”―Autobiography by Louis Spohr P.129~130


シュポアの1820年当時のパリ見聞録を読んで、まず感じたことは、文化はなかなか変わらないという感慨である。シュポアの所感は、今を生きる我々のコンテキストから見ると実に偏った視点である。シュポアがパリで見たものが18世紀から連綿と続いたものなのか自分にはよくわからない。ただ18世紀の雰囲気が色濃くある中でモダンボウが普及していったことが歴史の妙であると思うのである。


また音楽やバロックボウが国によって異なるものに進化していったことを想う。イタリアではソナタと朗々と歌うように弾くことのできる長めのソナタボウが発達したのに対し、フランスでは舞踏曲とリズムを刻む為に適した短い弓を使い、精緻なボーイングシステムと演奏のマナリズムが発展した。シュポアが不自然と評した最後の力を込めた一音をアップボウで強調して弾くことや感情表現に乏しいと言わしめた淡白なアダージョは、おそらくビオッティーが伝えたものではなく積年のフランス音楽の伝統を踏まえたものではなかったか。バロック期には、はじめの音をダウンボウで行うというものがあったが、フレーズ最後の音をアップボウで強調するというのがいつからのものなのか、演奏を研究しているわけではないのでよくわからない。ヘッドのやや高いイタリアンスタイルの弓をピエール、レオナール・トゥルトが18世紀中頃に作っていてアップボウがしやすくなるので、もしあるとすればその辺りからの慣習かもしれない。


アダージョを自身の演奏における代名詞としていたシュポアにとっては不幸なことであったが、パリで始まったモダンボウの普及には人々が情感豊かなアダージョよりも華やかなアレグロを好んだことが関係していると思う。モダンボウのように毛束をフルールと木のスプレッダーで固定するだけで音はガラリとフォーカスしたものに変わる。それを嫌気したドイツ語圏のある宮廷オーケストラでは1850年頃までモダンボウを使うことが無かったという。トランジショナル期のドッドやトゥルトのオープンフロッグの弓にはアムレットが依然として多く使われたが、モダンボウでフロッグに毛束をがっちり固定するようになるとペルナンブーコの使用が今度は多くなる。毛束が弦に常に接地している状態からは解放されたが、ペルナンブーコより高密度のアムレットでは毛束をがっちり固定すると音が硬くなりすぎてしまったのではないか。


ペルナンブーコの使用には演奏で軽い弓が求められていたこともあるのかもしれない。トランジショナルボウの中にはビオラだかバイオリンだかよくわからない重量の弓が多々ある。一方、トゥルトやゴーラが19世紀のはじめに作った弓はとても軽い。アダージョよりも鮮やかなアレグロや精緻で華麗な弓捌きが必要とされていたのであればそれも説明がつくのではないだろうか。19世紀でも時代が下るとまた重い弓が出てくるようになる。


弓作りを始めた当初よりずっと違和感を持っていたことの一つに、素晴らしきフランス伝統の弓作り、偉大なフレンチスクールのバイオリニスト達など色々と勇ましいことを耳にするものの、当時のフランスにあまり印象に残る音楽がないのはなぜかということがあった。シュポアの日記や18世紀、19世紀当時の資料をしばらく調べていくうちに何となくその辺の事情を知ることができたと思う。また弓作りにおいてはトゥルトが新星の如く現れてモダンボウを作り音楽が変わっていったという通説をそのまま文字通りに受け入れるのではなく、ドッドやトゥルトを生み出したイギリス、フランスの音楽シーンにも目を向けるべきだと思う。トゥルト本人は淡々と音楽家の要望に応えて日々の仕事をこなしていただけに違いなく、フランスで愛され、演奏されていた音楽がモダンボウの発生と普及に関わっていたと見るべきだろう。個人的にずっと疑問に思っていた18世紀から19世紀前半の、ごちゃごちゃっとした音楽事情がわかって、息の詰まるような梅雨空の下ではあるものの少し気が晴れた思いである。

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