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ウーシャの学校 Part-1



JTLに代表されるフランスの量産の興亡を踏まえて、国の威信をかけた製作学校の構想を時の文化省音楽監督であったマルセル・ランドスキに一任された弦楽器職人(楽器商)エティエンヌ・ヴァトロは、量ではなく質を求めた。精度を上げて、少量を作り高く売る路線に活路を見出そうとしたのである。ミルクールのバイオリン製作学校は1970年に始まり1971年より弓製作が新設された。楽器の製作はルネ・モリゾーが教えることになったが、弓では誰を教師として迎えるかが問題であった。フランスでは1910年から1950年の間に弓職人になった人はたったの10人であったという。ジャン・ジャック・ミランやジャック・オディノーなど名工と呼ぶにふさわしい候補はいたが、それぞれのビジネスを投げうってミルクールで指導をする選択肢は彼らには無かった。そして帰郷の念を抱きつつスイスの工房にて高級品を主に作っていたベルナール・ウーシャに白羽の矢が立つことになる。


政治は自分にはよくわからない。しかしビジョンを持った政策の必要性を誰しもが感じているのではないか。素人ながら思うこととして、目先のことのみに囚われず未来を見据えて丁寧に金を使うべきだし、それがきちんと為されているか見届けるべきだと思う。音楽においてもクラシック音楽は西洋で生まれたが、それを保護して育てる精神と政策が彼の地にあったから現状このようになっているのであって、自然にこうなった訳ではない。フランスではクラシック音楽は自己破産寸前とまで5~60年前には言われていた。時を同じくしてフランスの楽器製作、弓製作も衰退期にあってこの二つはリンクしている。フランスでクラシック音楽の再興を後押しする政策が執られたのは1966年に遡り、ベルナール・ウーシャがミルクールで弓製作を教えたのもこの政策があったからに他ならない。1966年に小説家でシャルル・ド・ゴール政権下、文化相であったアンドレ・マルローが作曲家のマルセル・ランドスキを文化省の音楽監督に任命した。就任当初から評価は割れていたらしいが、ランドスキが音楽監督になったことで進んだ物事も多くある。ミルクールに楽器製作のリセ(lycee、高校にあたる)がヴァトロ達の働きかけで出来たのもその一つである。音楽家が楽器商の要望を受けて楽器製作を教えるリセを作ったのである。我が国でそのようなことは難しいに違いないが、何かを大きく変えようとするならばその道の人にパッと全てを任せてみる、というようなことが必要なのかもしれない。(続く)


参考文献:The Bernard Ouchard Bow-Making School in Mirecourt, France, from 1971 to1981. By Olivier Fluchaire 2011


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