弦楽器では"奏者の今"に合わせるために楽器のサイズを変更し、継ぎネックなどでバロックからモダンへの変更が普通に行われ、そのような修理、修復は評価の対象となってきた。弓ではなかなかそうはいかないが、修理、修復、改造によって機能が落ちていないのであれば、歴史的な価値を考えてもう少し高く評価しても良いのではないかと思う。折れるなどして僅かな値段で取引されているペカットの弓などを見ると、どうにも切ない気持ちになる。
弓でも本筋から外れて市場価値について一切考えなければかなりの改造が出来る。接ぎ方を憶えれば、弓を長くすることもヘッドを挿げ替えてハイヘッドの弓にすることも出来てしまう。自分では稀に4/4の弓をスティックのメネジを収めるモーティスの先端でカットして7/8に改造することがある。若かりし頃に使っていた弓を年齢を重ねてもなお使い勝手が良いようにする為で、勿論名のあるメーカーの弓には手を加えることはしない。しかし弦楽器においては道具である以上、刹那的な考えもあってしかるべきだと思うことがある。サイズや仕様変更が過去に行われた楽器は"奏者の今"に合わせるためにその様になった経緯があって、バイオリン属の歴史当初からの慣習と言ってよく、それらを否定するのは意味の無いことだろう。バイオリンはそもそも3弦から始まっており試行錯誤の末に、今の形に落ち着いている。草創期に作られたアシュモリアン・ミュージアムにあるリラ・ビオラはネックや指板はオリジナルではないことから、リラ・ダ・ブラッチョのようなものとして当初作られたものかもしれないし、色々試した姿なのだろう。修復、改造、改善、数多の実験があって今があるのであって、実験を続けている人達は今も世界中にいる。
あるビオリストの方が昔、新作というと楽器屋さんに「弾きこんでいけば50年後ぐらいにはガンガン鳴る楽器になりますよ」と言われたといい、50年も待てないから今鳴る楽器を作ってほしいと話していたがもっともだと思う。修復、製作、販売にせよとかく我々は将来の話をしがちであって、奏者の今に向き合っていないことがある。もし昔使っていた楽器が弾きづらくなったと感じるのであれば、次の方にバトンを渡すべくお譲りして今の自分に合う楽器や弓に変える、扱いやすいものを誂える、或いは改造するといったことは一方であっていいと思う。
テセウスの船というタイトルで弓職人のロドニー・ムーアがいつぞやのVSAのコンベンションでプレゼンをしていた。テセウスの船というのは英雄テセウスの功績と彼の使用した船を後世に遺すために劣化した木材を次々に交換した結果、船は別ものに生まれ変わり古の記憶は薄れていく、というものだ。弦楽器においても傷んでいる箇所を交換しているうちにやがてオリジナルがほとんど残っていない弓なり楽器が存在する。それを製作者本人が作ったものと呼んではたして良いものかという問いかけをして、オリジナルを最大限残すにはどのような修理をすれば良いかという内容であった。技術者にとって耳が痛い話である。オリジナルを可能な限り残すことが原則としてある。ただそこに執着し過ぎて必要な処置をしないと、他の箇所で不具合を起こすことがあるのでバランスが必要だと思う。
修復に対するスタンスを決めるのは存外難しい。風合いの問題もある。修復にも本当のところは作法があって、本筋のディーラーが持っている弓はやはりパッと見て違いがある。オリジナルとされている弓にも過去に手が入っていることがあるが、手を加えた人がその辺のことをちゃんと理解していて、風合いなりパティナ(Patina)を壊さないようにしている。日本にはまだまだフランスにも残っていないような素晴らしい弓があって、それらを扱う先達もいる。あらゆるものが日本を目指した時代があって、その塵や星屑のようなものから自分達の世代は出来ていると思う。修復やディーリングはそれぞれ生涯をかけるものであって自分はそちらの道は歩まないと決めているが、ロンドンやパリで行われているような専門性の高い仕事を為す人が増えてほしいと思うし、先達が開いてくれた道を次に繋げるようなことが出来ればやってみたい。