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ヴィオラと弓 Part-5

1916年6月、タ―ティスはイザイとイザイの息子と共に戦場にいた。イザイとは第一次世界大戦中当時ドイツ軍と戦っていたベルギーにて、前線で兵士達へ向けて慰問コンサートを各地で行った戦友である。タ―ティス本人にも召集令状は来たがある障害により兵役に就くことは出来ず、かわりに特別巡査として任務に就き、時にはヴィオラを担いで戦地に赴いた。戦争は人の流れを大きく変える。大戦前にロンドンに溢れていたドイツ語圏の音楽家達は帰国を余儀なくされ、かわりにベルギーやフランスの音楽家達との交流が生まれた。反ドイツ感情もあって戦後10年経ってもその状況は変わることがなく、しばらくしてもクライスラーなどドイツ語圏の音楽家達がロンドンの音楽シーンに戻ることはなかったという。連合諸国間での交流はその後も盛んであって、タ―ティスも様々な国の音楽家やパリの楽器商とも頻繁にやり取りをしている。


サルトリーと家族

職人が楽器や弓を作る際に最も影響を受けるのは音楽家の意見やアイディアだと思う。イザイとサルトリーやヴィニェロンには繋がりがあって、イザイの演奏スタイルが当時関わりのあった職人達の弓作りに影響を与えたことは周知のとおりである。弓ではトゥルトとヴィオッティーの関係に見られるように、音楽家のアイディアや要望に応えていくうちに弓の形がその時その時で変わっていくのだと思う。後期のヴォワランの弓があのようになったのも当時の音楽を直接反映しているというよりは、誰か特定の音楽家のアイディアを形にした結果ではなかったかと思う。サルトリーの弓は寸法を見るとラミーに肉をつけてマッチョにした感じで取り回しが良い。ヴィオラのサルトリーの弓はバイオリンのヘッドとフロッグの高さをそれぞれ2㎜ずつ高くして、フロッグの長さをバイオリンより3㎜弱長くとって、ラウンドヒールにした感じだ。サルトリーのヴィオラ弓についてはテオフィル・エドゥアール・ラフォルジュ(1863~1918)やアンリ・カサドシュ(1879~1947)といったフランスのヴィオリスト達と共に作り上げたものではないだろうか。カサドシュはカペー四重奏団のヴィオリストであり、リュシアン・カペーが弓職人たちと弓についてあれこれやり取りをしているのを目の当たりにしていた筈で、ヴィオラの弓についても何かしらやっていた筈だ。


タ―ティスはというと自身の経験とアイディアを形にすべく、職人と新たな楽器製作に挑んでいる。はじめに取り組んだことはアーチを鉄道橋のように繋げることだといい、第一次世界大戦時に特別巡査として鉄道橋の下をパトロールしている時にその着想を得たという。タ―ティスは弓について多くを語らなかったが、軽いバイオリン用の強い弓を使っていた。


In the bad old days the general opinion was that everything connected with the viola had to be heavy - even the bows were like broomsticks. Personally, I never used anything but the lighter violin bow, with a very strong stick. In my design the blocks inside the viola are semicircular. The bass-bar and sound post are further apart than they normally are, thus giving less congestion to the plate at the centre bout. I was able to do this because of the great strength achieved by the arching of the plates.  White, John. 2006. The First Great Virtuoso of the Viola. Woodbridge: The Boydell Press p.323


ターティスが長い時間をかけて職人、リチャードソンと二人三脚で行ったタ―ティスモデルの開発と実験の詳細や精神は、それが成功したか否かに関わらず音楽に携わる人にとって宝であり学ぶべきことが多くあると思う。調整や修理を繰り返し行うことで楽器の中で何が起こっているかイメージ出来る人は多くいる。ただ楽器を一から設計する人は滅多にいない。どこをどうすれば自分がイメージする音や演奏性が得られるのかについては、楽器でも弓でも定石を外すようなことを色々やってみないときっとわかるようにはならない。タ―ティスが晩年に答えたインタビューでは横板の高さやバウツの幅など詳しく述べていて、ヴィオラの音の本質を理解していたことがわかる。一方、弦についての研究はきっと人生における時間が足りなかったに違いなく、自分ではやらないと決めていたようで弓についても同じこと言える。弓の重量にはもっと幅があっていいとかねてより思っていたが、大きなヴィオラを弾くことにこだわっていた彼が軽いバイオリンの弓を使っていたことがわかり、自分にとっては大きな学びであった。


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