現在自分の興味の対象は、弓の形の移り変わりと音楽の歴史を併せて辿っていくことにあって、広義では17世紀末期から19世紀末までを含む。16世紀のモンテヴェルディの時代になると歴史の遥か彼方であって、霞みがかっておりはっきり言ってよくわからない。手元にはウィーンの博物館に収蔵されているルネサンス期の弓の図面があるので、どんなものか一度は作ってみたいと思う。最も面白いと思うのはコレッリやタルティーニから連綿と続く音楽家の系譜を辿っていくことと、彼らが使っていた弓を追っていくことだ。18世紀末から19世紀中頃までの弓が大きく形を変える時代を見るのも面白い。また後半、ボアランなどのメーカーと当時の音楽家達との交流も興味深くいつか調べてみたいテーマだ。 一つの流れとしてコレッリからジョバンニ・バッティスタ・ソミスへ、ソミスからガエタノ・プニャーニへ、プニャーニからジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティーへ、ヴィオッティーからフランスのクロイツェル、ロード、バイヨへというフランスのコンセルバトワールに続く系譜がある。 コレッリからソミス、ソミスからジャン=マリー・ルクレールへと続く系譜では、1720年代を境にそれまでフランスで主流であったショートボウからイタリアのソナタボウのように、長めの弓がフランスにおいても使われるきっかけをつくったことを特筆すべきだ。 もう一つ全く異なる足取りで後にヴィオッティー一派と19世紀に遭遇することになるのが、コレッリからピエトロ・アントニオ・ロカテッリへ、ロカテッリからニコロ・パガニーニへと続く系譜だ。バイオリンの奏法の多くはバロック期には既に存在していたというのがロカテッリを聴くとよくわかる。パガニーニとロカテッリは直接会ってはいないが、パガニーニがロカテッリを研究したことで時代を超えた繋がりが生まれた。この系統がバイオリンの演奏や音楽に与えたインパクトは周知のとおり非常に大きく、エルンストやバッジーニをはじめ、後に続く音楽家に影響を与えた。19世紀後半にボアランが首元や手元を細くした弓を突如として作り始めるのもそのような技術を追い求める時代背景があったはずだ。
本題のパガニーニである。パガニーニが使ったガルネリや彼の金銭に対する執着などについてはよく語られるものの、彼がどのような弓を使ったのかということはあまり話されることがない。遺された多くの肖像画や手紙などから、パガニーニは常に新しい弓を探し、試していたことがわかっている。
ドイツ人画家のカール・ヨーゼフ・ベガスが描いたリトグラフに写しだされたパガニーニが手にしている弓は、イギリスでバイオリン職人のウィリアム・フォースターがジョン・ドッドなどにオーダーして作らせていたバトルアックスタイプの弓だ。この弓はトランジショナルボウでクラマータイプの一種とされ、音楽学者のデイヴィッド・ボイデンはこのような弓はモーツァルトやハイドン、初期のベートーベンの演奏に特に適しているとしている。ベガスがこの絵を描いたのは1820年以降とされているので、モダンボウ以外の弓をシチュエーションに応じて使うこともきっとあったのだろう。特にパガニーニの研究対象は後期バロックのロカテッリなので、彼が求めていた音にモダンボウより近かったこともあるのではないか。ヴィオッティーの教え子であるピエール・バイヨの記述によれば、ヴィオッティーが使用していた弓はトゥルトより2.5㎝程短く、ドッドのものであったかもしれないといわれている。ドッドの弓は総じて短いので、この時パガニーニが手にしていた弓のスティックは短めの700㎜~710㎜前後であったと思われる。
当時音楽家は馬車に揺られ、またある時は船に乗って遥かなる旅をした。1816年にはルイ・シュポアがヴェネツィアで演奏会をひらき、パガニーニはこれを聴きに行っている。また同年ミラノにてフランスのクロイツェルやロードに教えを受けたシャルル・ラフォンと共演し、1817年にはポーランド人のカロル・リピンスキがパガニーニを訪ねている。様々な地方出身の音楽家の演奏、楽器、弓を見たに違いない。画家のドミニク・アングルがローマにて1819年に描いたパガニーニの素描でパガニーニが手にしている弓は明らかにモダンボウであり、その年代からトゥルトの弓ではないかと言われている。パガニーニの24の奇想曲をはじめとする作品はロカテッリやクラシックギターの研究に加え、モダンボウの使用がその完成に必要な条件であった筈だ。
後年、新しい物好きのパガニーニは、ヴィヨームが作ったホロウスチールボウについてヴィヨームに「とても良い」という手紙を送っている。ジェー・ビー・ヴィヨームのホロウスチールボウ(Hollow steel bow)は1834年から1850年まで年間約100本ずつ作られた。ニッケルシルバーなどで作られたこの弓は中が空洞になっていて、ラフラー(Lafleur)のスワンヘッドの弓をモデルにしており、当時25フランで販売された。この弓は現在日本国内にも何本かあって、試奏したことがあるが弾いた感じはひと昔前のトランジショナルの木の弓とほぼ変わりがない。しかし他のビヨームによる発明同様、この発明が定着することはなく1850年頃を境に姿を消すこととなる。時代は超絶技巧の真っただ中でひと昔前の演奏性を持ったこの弓はその後顧みられることはなかった。100年以上の時を経た20世紀後半になって、全く同じような中空の仕組みで二つのパーツを鯛焼きのようにセンターで合わせたカーボンファイバー製の弓が現れた。パガニーニの時代にもしこの発明があったのであれば間違いなくパガニーニのお気に入りコレクションに入っていたことだろう。
参考文献
・J.B. Vuillaume Roger Millant W. W. Hill & Sons
・Nicolo Paganini: his life and work Stepen Samuel Stratton
ニコロ・パガニーニの生涯 角英憲(訳)
・VSA Journal Vol. 3, No.4 Fall, 1977