奈良の正倉院にはスオウ(蘇芳、サッパンウッド、Caesalpinia Sappan)で染められた宝物や木片が収められているという。このサッパンウッドについて以前に詳しく調べたことがある。ペルナンブーコの原木がCITESⅡに指定され輸出入が原則禁止となった2007年頃のことである。スオウの木はペルナンブーコと同じように染料として使われ、古来より珍重されてきた。近年中国で作られたペルナンブーコ製とされている弓の多くはこのサッパンウッドを使用していたようであるが、サッパンウッドの弓の材料としての使用はバロック期までさかのぼることが出来る。
弦楽器本体には製作者と製作年が記されたラベルがあり、年輪年代測定(dendrochronology)の進歩もあって比較的に精度よく製作された時期を追うことができるが、古い弓では正確な年代を割り出すことはまず不可能である。現存する弓で我々が正確に製作年を知ることのできる最も古い弓は1694年に作られたものだ。この弓にはネジ機構がついており、少なくとも17世紀末期にはネジで毛にテンションをかける弓が存在したことがわかっている。それ以前の弓については、当時の音楽についての文献や絵画、そして同時代に作られた家具や装飾品などから推測するしかない。
モダンボウ以前の弓といえばスネークウッド(Brosimum Guianense)を真っ先に思い浮かべるが、近年の研究では実に多くの材料が使われてきたことがわかっている。ルネッサンス期の弓はヨーロッパ原産のソルブツリー(Whitty Pear, Sorbus Domestica)、メープル、ブナ(Beech)、唐松(Larch, Larix decidua)、イチイ(Yew)などの他、果樹を多く使用している。その他にもヨーロピアン・ウォールナット(Juglans regia)、キャロブ(Carob, Ceratonia siliqua)など、様々な樹種の弓が見つかっている。
風の循環と海流の仕組みを解き明かした15世紀の大航海時代を経て、様々な樹種が弓の材料として世界各地より手に入るようになる。香辛料を求めてポルトガル人が開いたアフリカ南端を越えてインド洋に出る航路からはアフリカン・ブラックウッド、マダガスカル産の黒檀や更にはインド、マレー諸島原産のマホガニー、スオウの木(Caesalpinia Sappan)が集められた。いわゆる三角貿易で有名なアフリカ・ブラジル航路ではペルナンブーコやイぺ、ブラッドウッド、アイアンウッド、マサランデューバなど様々な木がヨーロッパを目指して船積みされた。
ボルドーの法曹、Pierre Trichetが1631年に記した論文、Le Traite des instruments de musiqueによれば、弓はブラジルウッド、黒檀、その他のハードウッドによって作られるとある。このブラジルウッドというのはペルナンブーコを含むカエサルピニア(Caesalpinia)種やパロデティントと呼ばれるHaematoxylum brasilettoのことだろう。旧来、ペルナンブーコの使用は18世紀ということになっているが、ブラジルがポルトガルによって開かれた1500年当時よりペルナンブーコは植民地からの重要な輸出品であった。16世紀後半には沿岸部の木の多くが伐採され枯渇状態にあったとのことなので、16世紀末には弓に使うに十分な量の材料がヨーロッパにすでに存在していたに違いない。
一方、スネークウッドが最初にRobert Harcourtによって発見、報告されたのは1609年のことであり、弓に使われるほどの十分な量が供給されるようになるのは1650年以降のことだ。これらのことから17世紀前半に名を馳せたダンスマスターのボーカン(Jacques Cordier dit Bocan)や音楽家のCarlo Farinaが使用していた弓はおそらくスネークウッドではなく、アフリカン・ブラックウッドやペルナンブーコで出来た弓を使っていたのではないだろうか。一時ペルナンブーコやアフリカン・ブラックウッドを使用していたのに18世紀になぜスネークウッドが主流となったのか、実に興味深いテーマであっていつか調べてみたい。
「正倉院にはスオウがあって、それは遥か後に弓の材料として使われた」
全てを弓に結びつけて考える癖がついているので正倉院と聞くとその様なことが頭に浮かぶ。興味が尽きることはない。
参考文献
・Adam Bowett, The Age of Snakewood, 1998
・Non-invasive wood identification of historical musical bows, IAWA Journal 38 (3), 2017
・David D. Boyden, The History of Violin Playing from its Origins to 1761
ペルナンブーコは16世紀より紫の染料としてヨーロッパで使われてきました。
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